宇和島城:苔むした石垣と現存天守

名称:宇和島城  別名:旧丸串城、板島城、鶴島城

探訪日:2020年2月22日

所在地:愛媛県宇和島市

標高:74m(平山城)

比高:--

築城・廃城

 宇和島城は、中世期にあった丸串城(板島城)の跡に、藤堂高虎によって築かれた近世城郭。標高74mの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように、二の丸、その北に藤兵衛丸、さらに代右衛門丸、長門丸などを中腹に、山麓に三の丸、侍屋敷などを配置した平山城。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接している「海城(水城)」(現在は、埋め立て市街地が広がる)。

 城山は広く450種の草木が生い茂り、苔むした石垣群など、他の天守を持つ城とは違う雰囲気を今なお有している。

現存天守などは宇和島伊達家が再建し、各階の装飾性の高い破風や懸魚などから太平の世を象徴するものと評されるとともに、御殿建築の意匠が随所に見られる非常に革新気を重んじた造りと言われる。

縄張りは藤堂高虎のもので外堀などの外郭ラインが五角形で江戸時代の幕府の隠密が江戸に送った密書に「四方の間、合わせて十四町」と誤って記載させるなど巧みな設計になっている。これが「空角の経始(あきかくのなわ)」ということで、四角と誤認することで一辺があき、ここを利用して城側が攻守に有利となることを狙ったものと言われる。他にも天守から原生林の中を抜ける間道が数本あり、西海岸の舟小屋や北西の隠し水軍基地に通じるなど高虎の築城術が生かされている。

 歴史は、天慶4年(941)警固使橘遠保が藤原純友の乱鎮定の際、この地に砦を構えたと言われる。嘉禎2年(1236)西園寺公経が宇和島地方を勢力下におき、現在の城山に砦程度の城を築く(丸串城)。

 天文15年(1546)家藤監物が城主となり、大友氏、長曾我部氏の侵攻に耐える。天正3年(1575)、監物が去り西園寺宣久の居城に。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国討伐により伊予国は小早川隆景の所領に。隆景家臣の持田右京が城代となる。天正15年(1587)隆景筑前国に転封となり、大洲城に戸田勝隆が入り、戸田与左衛門が城代に。

 文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石拝領し入城。慶長元年(1596)高虎、築城開始。同6年(1601)現在の城郭が完成し、宇和島城と名付けられる。高虎が関ケ原の戦いの戦功により前年に国府(今治市)への移封が決まっていたが城の完成を見届けた後に移った。

 慶長13年(1608)、富田信高が伊勢国より転封するも、同18年(1613)に改易され、幕府直轄に。同19年(1614)、伊達政宗の長男(庶子)秀宗が10万石で入封となり、元和元年(1615)に入城。

 寛文2年(1662)2代藩主宗利が天守を始め城郭全体の改修に着手。同6年ごろ(1666)天守(現存天守)の建築完了。改修とはいえ、土台は岩盤から石垣に、構造は望楼型から層塔型に、外観は下見板張から白漆喰総塗込と全く異なる天守が建築された。

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