小牧山城 信長の美濃攻略の足掛かり、小牧長久手の戦いの家康本陣

名称:小牧山城 

探訪日:2020年10月21日

所在地:愛知県小牧市

標高:86m(平山城)

比高:--

築城・廃城

 織田信長が永禄3年(1560)桶狭間の戦いに勝利した後、美濃国併呑を実現すべく美濃攻めを開始するため、永禄5年(1562)に清須城で徳川家康と清州同盟を結び尾張国東側の脅威をなくし美濃国に近い尾張国北方の小牧山に丹羽長秀を奉行として新しい本拠地を築き、永禄6年(1563)7月主要兵力を小牧山に移した。

 小牧山城は永禄10年(1567)美濃斎藤氏を滅ぼした後、稲葉山城に拠点を移し城下町の機能を全て移転させたため小牧山城は約4年間で廃城となった。4年間の使用のため美濃攻略のための仮住まいの城と考えられていたが、2004年からの調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ(城郭を取り巻く三重の石垣など)本格的な城(中腹も削平され数多くの曲輪を構築)であることが判明し、山麓南側から西側にかけては清須から移転された城下町が形成された。また南山麓から頂上の本丸に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられ、途中で折れのある道へと変化し、これは後の安土城の縄張りとの類似性が指摘される。

 天正12年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康の小牧長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山城に目をつけ本陣を置き、遅れた秀吉を悔しがらせたとも言われる。この時、信長の築いた土塁、空堀などに大規模な改修をし山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の虎口設けるなど「城」とみなせるほどの強固な陣地が築かれた。このため、秀吉も容易に近づけず、焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。このため小牧山城は、徳川勝利の一翼を担ったと言われ、この一戦は頼山陽により「家康公の天下を取るのは大阪にあらずして、関ケ原にあらずして小牧にあり」と称揚された。(日本外史)

 江戸時代には家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止され、尾張徳川家の領地として保護され、明治時代に一時民間に売却されたが買い戻され再度徳川家所有になったものの、昭和2年(1927)時の当主徳川義親により国に寄付された。同年国の史跡に指定された。

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