松山城ー現存天守で最も新しく多くの遺構が残る

名称:松山城  別名:金亀城、勝山城

(重要文化財21棟:大天守のほか野原櫓、乾櫓、隠門続櫓など6棟、戸無門、隠門、紫竹門,一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟)

探訪日:2020年2月23日

所在地:愛媛県松山市

標高:132m(平山城)

比高:--

築城・廃城

 松山城は標高132mの勝山山頂に本丸、西南麓に二ノ丸、三ノ丸を構える平山城で、天守は現存12天守の一つで最も新しい。大天守と小天守、南隅櫓、北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結した連立式天守となり、多くの建物が火災等で失われたものの。現存建築21棟は二条城の28棟に次ぐ多さ。また、敵の侵入を防ぐため山麓から本丸にかけて全国的にも他には彦根城しか見られない「登り石垣」が配されている。

 慶長7年(1602)、賤ケ岳七本槍の一人である加藤嘉明が関ケ原の戦いの戦功により、伊予国正木城(松前町)城主10万石から20万石に加増され道後平野の中央に平山上の築城に着手しこの地を「松山」と呼ぶこととした。寛永4年(1627)、嘉明は松山城完成を前に会津藩の転封となり、出羽国上の山城から蒲生忠知(氏郷の孫)が24万石の松山藩主となる。当時の天守は五重で偉観を誇ったと言われる。

 寛永11年(1634)忠知が参勤交代の途中に京都で死去し嗣子がおらず蒲生家断絶。翌寛永12年(1635)松平定行が伊勢国桑名藩から伊予松山15万石に任じられ、寛永19年(1642)当初五重であった天守を三重に改築した。これは、地盤の弱さに起因する天守の安全確保とも、幕府に配慮したためとも言われる。

 天明4年(1784)元旦、9代松平定国(徳川吉宗の孫)のとき天守が落雷で焼失し、11代定通が再建に着手するもその逝去と火災で頓挫。結局12代勝善が弘化4年(1847)城郭復興に着手し、安政元年(1854)天守が復興した。

 正岡子規の句 「松山や 秋より高き 天主閣」明治24年(1891)

        「春や昔 十五万石の 城下哉」明治28年(1895)

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