犬山城 李白の詩「早發白帝城」にちなみ白帝城と。

名称:犬山城  別名:白帝城

(国宝天守)

探訪日:2020年10月21日

所在地:愛知県犬山市

標高:88m(平山城)

比高:--

築城・廃城

 犬山城は、尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの高さ88mほどの丘に築かれた平山城。木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで、荻生徂徠が白帝城と命名したと伝えられる。

 前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父織田信康が改修して築いた城。豊臣政権の時に石河貞清(光吉)が改修し現在のような姿になったと言われる。江戸時代に成瀬氏が入り、天守に唐破風出窓が増築された。

 明治の廃藩置県に前後して全国の城郭の多くが廃城、破却処分となるが、犬山城も天守を除いて櫓、城門などほとんどが取り壊された。

 天守は望楼型三重四階地下二階の複合式天守で、天守の高さは19m、天守石垣は野面積みで高さは5m。

〇歴史

 天明元年(1469)、応仁の乱の最中に岩倉織田氏当主の織田敏広の弟織田広近がこの地に砦を築く。

 天文6年(1537)、清州三奉行の一人、織田信秀の弟織田信康(信長の叔父)は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営し、現存する天守は2階まではこの頃に造られたと伝えられる。永禄7年(1564)、信康の子、信清(信長の従弟)は信長と対立して敗れ、甲斐に逃れた。

 天正9年(1581)、織田信長の四男、勝長が城主となるも、翌天正10年の本能寺の変で信長と運命を共にした。本能寺の変後、織田信雄配下の中川定成が城主に。

 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで、大垣城主池田恒興が犬山城を攻撃奪取し、羽柴秀吉側の橋頭堡となり、秀吉もここに本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙した。天正15年(1587)、織田信雄に返還されるが、天正18年(1590)信雄が改易されると豊臣秀次の領地となり、その実父三好吉房が城代を務めた。

 文禄4年(1596)、豊臣秀次が切腹すると石川貞清が城主となり城の改築を行った。

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは岐阜城、竹鼻城とともに西軍の拠点となり、稲葉貞道、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門などが附属されたが、岐阜城が落城すると石川貞清を残し東軍に移った。石川貞清は犬山城を放棄し関ケ原に参戦したが敗北。

 慶長6年(1601)、小笠原吉次が城主に。慶長12年(1607)には平岩親吉が城主になり、甥の吉範を経て、尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、天守に唐破風出窓が増築される。以後、江戸時代を通じて成瀬家9代の居城となった。

 明治6年(1873)、天守以外の多くの建物などは取り壊されたり、払い下げられた。

 明治24年(1891)、濃尾大地震によって天守は半壊し、同28年に修理を条件として愛知県から旧藩主の成瀬家に譲与され、同家を始め多くの人々の支援により無事修復された。以後、全国唯一の個人所有の城として保存されてきたが平成16年(2004)、財団法人犬山城白帝文庫の所有となり、犬山市が管理を行っている。

 なお、犬山城の屋根には「桃瓦」が天守に6つ、付櫓に2つの遇わせて8つある。これは屋根の先の留蓋の役割をしたものに桃の装飾がされたもの。昔から桃は邪気を払う縁起の良いものと言われていることから、このような装飾瓦が使われているらしい。

 

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